あのとき、居場所があったと思えるように…

この記事を書いているのが8月末。メディアや新聞紙上では、「あなたはひとりじゃない」「自死を選ぶくらいなら〇〇においで」など、子どもたちに向けてのメッセージが紹介されています。

そんなメッセージは、「貧困」「いじめ」「孤立」など、今の子どもたちが置かれている厳しい環境を示しています。

子どもの生活は家や学校が中心で、社会が狭くなりがちです。そんな中で、「貧困」「いじめ」「孤立」という状況になったら…。自己否定に陥ったり、感情のやり場がないということもあります。

実際、「子どもの頃不登校だった」「実はいじめられていた」「子どもの頃がつらかった」と言う人に、仕事柄よく出会います。そんな彼らに、「子どもの頃、何があったらよかった?」と尋ねたら、「家や学校以外で、全面的に認められる場所」と言います。

筑後北校区の「こどものひろば」では、地域の役員や学生ボランティアは、子どもたちをたくさん褒めてくれました。中には、苦しい状況の子どもがいたかもしれない。そんな子が、「僕(私)のことを分かろうとしてくれた人がいた」と思ってもらえたらいいな・・・。

今じゃなくてもいい。そう思えるのが、5年後10年後でもいいから。  (善)

切り捨てられない社会へ

相模原市の障害者施設で19人が犠牲になった事件から2年が経過しました。7月26日の事件当日にあわせ、様々な報道媒体で事件が取り上げられました。凄惨な事件の内容や「障害者は税金の無駄遣い」といった犯行の動機について改めて考えさせられました。

一方、ある国会議員がLGBT当事者に対し「生産性がない」「そのような人に対しては税金を使う必要がない」という趣旨の発言をし、批判が集まっています。

もし「生産性がない」「税金の無駄」と切り捨てられるのであれば、その対象は誰になるのでしょうか。障害者やLGBT当事者だけでなく、病気になったら、怪我をしたら、年老いたら。誰しもが切り捨てられることになってしまうのでは…と思うのです。

相模原事件から2年が経過した今。改めて私たち一人ひとりの存在の尊さを見つめ直す必要があるのかもしれません。私たち誰もが切り捨てられることのない社会であるために…。(拓)

支えられるための学習

小学3年生の子どもたちに、「認知症」の授業をする機会をいただきました。子どもたちに、どう伝えようか考える中で、そこに難しさを感じました。

「認知症の人を理解しよう」という一面的な授業で良いのか、と。

認知症の方を対象者化し、単に「理解しましょう」「支えてあげましょう」という授業では、「認知症の人=社会的弱者(かわいそうな人/自分とは違う人)」という認識をつくり上げてしまうのでは、と思ったのです。

同時に、「子どもの貧困」が広がっている中で、苦しい状況の子どもたちが目の前にいるかもしれない。そんな中で「誰かを支えましょう」「理解しましょう」とだけ言うのは、酷なのでは…とも。

つまり、そこにいる子どもたちは、すでに何かの当事者かもしれない。また、いつかは誰もが何かの当事者になる。これは前提です。

そう考えると、「どうやったら助けてもらえるか」「どうしたら『困った』と言えるか」という、〝支えられるための学習〟も進めるべきでは…と思うに至りました。支えられることも含めて、「支え合い」なのですから。 (善)