言葉に耳を傾けて…

「何にもしてないとは思われたくないなぁ」

ふらっとスペースには、不登校の子どもが遊びに来ることがあります。最初は緊張で口数の少ない子も、会場の雰囲気に慣れてくると表情も明るくなり、笑顔も見られます。

そして、学校に行か(け)なくなった理由。進学のことやこれからの悩み。また、同級生に遅れないように自宅で勉強を頑張っていること…。ポツリポツリと語ってくれます。

そんな中、ある子が冒頭の言葉をつぶやきました。学校を休んで何もしていない、怠けていると思われるのは嫌なのだと教えてくれました。

彼らの話を聞いていると、人一倍考え、葛藤し、悩み抜いた上で「学校へ行かない」という選択をしているのだと気付かされます。
学校へ行か(け)ない理由は人それぞれ。そこにある悩みや不安はすぐに解消できるものではないかも知れません。しかし、まずは彼らがゆっくりと思いを語ることのできる経験、そしてそれに耳を傾ける人の存在が必要なのかもしれません。       
(拓)

吃音の「しんどさ」はどこにある?

「自分の生きにくさの原因が『吃音』であると知ったのは25歳の時でした」と、ある吃音者が言いました。

「どのようにして知ったのですか?」と尋ねたら、「インターネットでたまたま開いたサイトに、見知らぬ吃音者の経験談が書かれていた。それを見た時、今までの自分と重なり、涙が止まらなかった」と話されました。

その後、言友会に参加するなどし、自身の生きる道を考え直されたそうです。

つまり、自身の生きにくさの理由を正しく知ることが、前に進むステップになったということでした。

ただ、生きにくさの理由の捉え方が大事だという話にもなりました。「吃音」そのものが苦しいのではない、というのです。むしろ、友人や仕事仲間など、周りの人たちとの関わりの中にしんどさがあるのだ、と冒頭の彼は言いました。

つまり、吃音ではない人たちの理解の度合いや関わり方によって、問題が生み出されているのだと、捉える必要があるように思います。
そう考えると、吃音ではない人も、当事者として考えていくことが大事なのだと思いました。
(善)

それぞれができる地域の居場所づくり

8月に実施した「地域食堂立ち上げ応援講座」。その終了後に、筑後市内のとある校区で立ち上げに向けて協議が進められています。講座の受講者に加え、校区内で関心のある方も協議に参加されています。

「昔は隣の家で一緒に夕食を食べたり、大人も子どもも顔を合わせる機会が多かった」このような話も、協議の中で度々話題に上ります。
 近所の空き地で遊ぶ子どもの姿。井戸端会議をする人。人が地域で自然と交わる機会も減っているのかもしれません。

「食事作りのお手伝いぐらいならできるよ」と地域食堂の立ち上げに協力する人もいます。また「うちで作る野菜。食べきれないから使って」という声も。それぞれが出来ることを持ち寄って立ち上げる地域食堂。新たな地域のつながりの形なのではないでしょうか。

ただいま、食堂立ち上げに向け、理解者や仲間づくりの真っ最中。地域の居場所の一つとしてどのように根付いていくか…。今後の展開に乞うご期待!        (拓)