「介護する側からされる側へ変わる時」

介護家族の会「コスモス」の忘年会で、「そうなったら、一緒に同じ施設に入ろう」と、話が盛り上がりました。
この方、夫婦2人で生活をされており、どちらかに介護や医療が必要となった時、食事や家事の面でお互いのことが心配の様子。幸いなことに近所の高齢者施設と親交があり、自炊が出来なくなったら食事だけでも食べにおいでと言われているとのこと。
「必要に迫られたらホームで食事して時々家に戻るようにしようかな…」と。

その場にいた同じ会員さんも伴侶を亡くされ一人暮らし。「気の合う仲間同士で同じホームに入って余生を暮らすのもいいかも…」「将来的に孫や子ども家族にお世話になりたくないし…」等々。

元気なうちに自分が望む介護の在り方・生活スタイルを家族や身近な人たちに伝えておくことも大切なのではと感じた瞬間でした。
また、家族介護の経験のある方だからこそ、自分達に介護が必要になった時のことを、身近に考えられるのではと思います。
介護する側からされる側へ変わっていく時、自分がどんな生活を望むのか考える時間も大切なのでは感じています。      (宏)

「安心してどもれる環境」

「みんなどもっていて安心する」
昨年、縁あって、言友会(吃音の人たちでつくる団体)の全国大会に参加させていただきました。当然会場にいる方のほとんどが吃音の方で、その程度に差はありますが、皆さんどもりながらお話をされていました。
そんな中、ある参加者の方が冒頭の言葉を言われました。みんなどもっていて安心するという言葉の背景に、様々なものを感じてしまいました。
それは、普段は安心して話せる場所がないということ。どもることを気にしながら、日々を過ごしておられるのだろう…と。
学校や友人関係などを始め、就職、恋愛等様々な場面で悩んできたという吃音の方のお話はこれまでにも聴いてきました。
しかし、これらには、全て「相手」があることで悩むものです。会話する相手との関係性の中に、悩みがあるのです。
冒頭の彼は、治したいというよりも、安心してどもれる環境を求めています。理解が広がれば、そんな環境が増えていくのだと思います。
そしてーー。吃音の方の「相手」になった時、安心してどもってもらえる人でありたい。知ってしまった以上、そう自身に問いかけています。(善)

「気持ちはみんなと一緒だよ」

「私たちには障害があるけど気持ちはみんなと一緒だよ」
今年も市内の小学4年生を対象に福祉教育を実施しています。
福祉的な技能の習得ではなく、同じ空間で一緒に過ごすことを目的として、障害当事者のゲストティーチャーが市内の小学校へ出向いています。
そこで、冒頭の言葉を聞き、私自身のことを少し思い返しました。

学校を卒業し、就職したての6年前。「障害のある人には何か手助けせねば」と、ある種の責任感を感じていました。しかし、実際に目の前に立つと、どんな風にお声かけすればいいのか分からずに立ち尽くしている自分がいました。
しかし、重度の身体障害のあるAさんも、精神障害で入院歴のあるBさんも、多くの方が笑顔で声をかけ、私のことを知ろうと話かけてくれました。気が付くと、私の中の「手助けせねば」という意識は消え、肩ひじを張らずに話ができる関係になっていました。

そして今「気持ちはみんなと一緒」という言葉を聞いて、その人を知ろうとせずに、障害にだけ目を向けていた自分に改めて気が付きました。
本当に必要なことは過剰な配慮ではなく、一緒に過ごして、その人を知ることだったのです。(拓)