ご近所に、毎日一万歩を歩く高齢で一人暮らしの女性がおられます。その方は歩きながら道や公園のごみを拾ったり草とりしたり、近所の人と会話したり…。ゴミ収集日には必ず収集所に立って、係でもないのに分別の手伝いや片付けもされます。
近所の家の様子もよく見られていて、最近見かけない人がいれば隣の人に尋ね、庭の手入れに困っている人がいれば枝木を切ったり草取りを手伝ったり姿も見かけます。
近所付き合いを面倒に思う人も増え、「おせっかい」、ひょっとしたら「監視」と感じる人もいるかもしれません。実際、引っ越して初めてこの方と会った時は圧倒されました。しかし、今はこの方とのおしゃべりが大好きです。地域の最新情報も昔のことも、色んなことを教えてくださいます。
そして公園、道路、ごみ収集所も、いつもきれいなのはこの方のおかげです。わが家の子どもたちにもいつも声を掛け見守っていただき、近所をパトロールしてくれていると思うと家を空けている時の安心感もあります。
今や減った「おせっかい」のありがたさを感じますし、それが今も受け入れられている地域っていいなあ、
と私は気に入っています。 (喜)
社協だより「人として」6月号を発行しました。
ユースサポートの取材をしながら小学生の頃を思い出していました。私も担任の先生や同級生との関係、クラスの雰囲気などで学校に行けない時期がありました。
学校と家だけで、どこにも逃げ場がない中、子どもなりにたくさん考えて自分の気持ちを整理していたと思います。
母は「無理して行かなくていいよ」と、行きたくない理由をゆっくり聞いてくれて家と学校以外の居場所を作ってくれました。そして頑張れる場所ができたこと、クラスの雰囲気が変わったことも重なり学校に行けるようになりました。
しかし学校に行けるようになることがゴールではなく、行けるから大丈夫というわけでもありません。理由を話さないのではなく、話せないのかもしれません。本当は「誰か」に分かってもらいたいと思っているかもしれないのです。
子どもたちが「どうせ分かってくれない」と諦めることがないよう、その「誰か」になるために、私たちにできることは何か考えていかないといけないのではと改めて感じました。 (実)
社協だより「人として」5月号を発行しました。
社協だより「人として」4月号を発行しました。
今回行なった精神障害のある女性へのインタビュー。話を伺って印象的だったのは、周りの方へたくさんの感謝の気持ちを持っておられる、ということ。とても素敵だな、と改めて彼女の魅力を感じました。
数日後、記事にまとめて彼女に確認して頂きました。その時一番に気にされたのは、「私だと特定されないか」ということ。取材時も言われたのですが、「私が独身ならどれだけ知られても構わない。でも、子どもが変な目で見られたら怖いから」と。
誰でもなる障害で、本人が責められるものでも、怖いものでもないことは明らかです。それなのに、なぜ彼女は隠さないといけないのでしょうか…。
障害はマイナスな面ばかりではないものの、彼女の場合は今でも、眠れなかったり極度に疲れやすかったりと、様々な苦労もされています。しかし、その症状ゆえの苦労以外に、障害を周りに知られまい、という苦労をしないといけない…、これが一番の問題だと感じました。
同時にそれは、正しい理解や声掛けなど、地域の一員である私たちの意識や行動で解決していけるのでは、と思っています。 (喜)
3月22日より筑後市総合福祉センターの営業を再開します。
「私は付属品じゃない!」という声が心に刺さりました。妹に知的障害がある 歳代の女性の話です。
「子どもの頃、妹の療育に母は私も連れて行っていた。療育施設に着くと母と妹は別室に行く。母と保育士たちと楽しそうにしている妹の姿が窓から見えた。私は一人ぼっちだった。たまに通りがかる職員は、私のことを『○○ちゃんのお姉ちゃん』と呼ぶ。私も一人の子どもだよ!私は付属品じゃないよ!そう思っていた」
そんな彼女は「親は妹の世話で大変。だから親に甘えた経験がない」「誰を頼って良いか分からず、誰にも助けを求められなかった」とも。
こうした話はこの女性特有のものではなく、きょうだい支援に関わる中では、よく話題になることです。
ひょっとしたらヤングケアラーにも同じようなエピソードがあるかもしれない。だとしたら、私たちがすべきは、一人ひとりの子どもを大切にすることと、「助けて」と気軽に表現できる環境をつくることではないか。
「私は付属品じゃない!」と心の中で叫ぶ子どもを減らしていくのは、大人の役割ですよね。 (善)