福岡県筑後市の社会福祉法人 筑後市社会福祉協議会

自分で選択し、切り開いた自立生活

33年前、重度障害のある方では市内で初めて自立生活を始めた男性がいました。そして今年5月、意志を全うし一人暮らしをしてきた自宅で亡くなられました。先日開かれた偲ぶ会では、参加者同士で思い出を語り合いました。

障害がある・ない、世話する・されるの垣根なく付きあう大切さをよく話され、誰とでも自然体で気さくに接する方だったので、交友関係も広かったようです。

一方「主体性があまりなくサポートする上で困った…」との声も。以前発刊された自叙伝に、自立生活するまで自分の意志を言って良いという考えすら持たなかったという経験が綴られていたのを思い出しました。その後周りの方との関わりで、徐々に自分の考え、希望を伝えられるようになられたようです。

地域の中で誰もが希望を語り自分で選択し、それを叶えるために支援を受けやすい環境と関係性を築いていくー。制度もサービスもない時代に自立を決意した勇気と、支援体制を自分でつくる行動力を持ち、地域に種をまいて下さいました。そしてこれから、そんな地域を育てていくことが私たちに残された役目だと思っています。  (喜)

目に見えないことこそ労って

「施設では、福祉用具や介護用ベッドなど、環境が整った中での介護ができます。しかし自宅での介護は、そうはいきません。その中で日々、介護をしている家族の方に、私たち施設職員は頭が下がります」

介護家族の会「コスモス」で、市内の施設職員を講師に招き排泄講座を行なった際の言葉です。

その言葉を聞いた一人の参加者が涙されました。実はこの方、夫の介護でこの施設を普段から利用しており、その施設職員から労いの言葉をかけていただいたことが嬉しかった・・・と後日お話を伺いました。

施設職員の生業としての介護・自宅での家族介護・・・同じ介護でも、家族の介護には休みがありません。目に見えない苦労が多く、終わりも見えにくい自宅での介護・・・。日々当たり前にしていることでも認められ、見てくれている存在がいることが、大きな力になるのだと感じています。

身近な存在の人が大変なときや辛いときこそ傍にいて、労いの言葉や感謝の気持ちを声にして伝えられるよう心がけていきたいものです・・・。  (宏)

笑顔でいるために必要なことは・・・?

ある子育ての情報紙を見て、「子どものために母は笑顔でいないといけない。子どもはお母さんの笑顔が好き。笑顔でいるために、自分で工夫、努力をしよう」という文章が目に留まりました。

「笑顔で子育て」が理想かもしれませんが、現実には私も働いていると、ゆとりをなくし子どもにきつく当たってしまうこともあります。その後、罪悪感と劣等感を抱きます。

一方、増え続ける虐待。他人事には思えません。その親も、わが子を可愛がりたい、子育てを楽しみたい、笑顔で子どもと接したい、という想いがなかったわけではないと思います。

私を含め、今も「笑顔でいられない」背景を抱えている人はたくさんいるはずです。協力してくれる人がいない、相談できる人がいない、生活にゆとりがないなど…。そうした状況にいる親にだけ努力を強いて、子どもは救われるでしょうか。

子どもも親も笑顔でいられるためには、まずは手助けしてくれる人の存在、手助けを求めやすい環境があることが必要と感じるのですが…。(喜)

ちょっとの心がけが大きな支えに

日本では、まだ食べられるのに捨てられる食品。いわゆる「食品ロス」が年間632万トンも発生しています。これを人口に換算すると1人当たり茶碗1杯分のご飯を毎日捨てている計算になるそうです。

社協では、簡易フードバンクの取り組みを実施中です。家庭で食べなくなった食材を必要とする方に渡すという取り組みです。昨年度は 件の世帯に食品を提供しました。食べるものがないという生命の危機に直面した方にとっては、大きな支えとなります。

また、地域食堂の取り組みにもフードバンクの食材は活用されています。これは、食事を通した地域の居場所づくり活動です。生活困窮の要因となる「孤立」を防ぐための取り組みとも言えます。

家庭に眠っている食品や、捨てられようとしている食品が誰かの命をつなぎます。誰かのよりどころを確保する活動につながります。
普段の生活でちょっと心がけるだけで、あなたの隣の人を救うことになるのかもしれません。   (拓)

バイトテロに見る格差社会

わざとゴミ箱に魚を放り入れ、それをまな板に載せて調理する。そして、その様子を映像にしてSNSに掲載する。
2月にそんな映像がマスコミで取り上げられ、直後から「バイトテロ」として話題となり、その他飲食店やコンビニでの同様の事例が多数報道されました。

確かに、店内の裏であんなことが行われていると不衛生ですし、不愉快です。

アルバイト店員の行動はあってはならないことです。企業はそのアルバイト店員に法的措置も検討しているそうです。

ただ、今回の報道で見え隠れするのは、夜間の営業や飲食店の厨房が、少数のアルバイト店員のみで行われているという点です。

つまり、正職員などの責任者がいない職場だったということ。そんな労働環境が果たして健全なのだろうか、と。

消費者は「なるべく安く買おう」とするわけですが、それが「安上がりな労働力」によって成り立っているという事実が垣間見えるようです。

「格差社会」「子ども・若者の貧困」という言葉が珍しくなくなった時代。それを生み出しているものが、私たちのすぐ側にあるような気がしましたし、自己責任論だけではいけないなと思いました。                (善)

力を発揮できる環境

高齢者や障害のある方のちょっとした困りごとのお手伝いをする「もえもんサービス」。毎月、数件のお宅で草取りやゴミ出しなどを行います。

ひきこもりだった青年が、頻繁に作業を手伝ってくれています。

メンバーの中で一番若手の彼に、経験豊富なAさんが作業のアドバイスを送ります。彼もそれに応えようと、汗をかきながら一生懸命、作業をします。そして休憩中は他愛もない会話を交わし、笑顔も見られます。作業が終わると家主の方は「本当に助かりました」と感謝されます。彼が不在のときは「今日は○○くん来てないね」とAさんも寂しそうです。

彼の力が必要とされていて、彼が来るのを待っている人がいます。ひきこもり経験のある人は「支援が必要」と考えられがちかもしれません。しかし、必要なのは力を発揮できる環境と、そこで待つ人との交わりなのではないかと感じます。

隠れた力を持つ人はまだ多いはず。枠にはまった「仕事」ではなく、それを柔軟に発揮できる環境が求められているのかもしれません。(拓)

様々な家族への思い

12月に、「きょうだい」をテーマにしたテレビ番組が放送されました。

「きょうだい」とは、障害のある人の兄弟姉妹のことを指す言葉。筑後市では「ふくおか・筑後きょうだい会」が、きょうだい同士の交流活動を進めています。

番組放送に先立ち、「とうとう、きょうだいにスポットライトが当たりますね」と会員に話したところ、数人の会員がこのように言われました。

「1つの事例の紹介で、全てのきょうだいが同じように思っているとは、捉えてほしくない」
「家族のことを『嫌い』と言えない雰囲気がある。『嫌い』という感情があっても良い、とも伝えてほしい。家族だから仲が良い、という
勝手な家族像をつくらないでほしい」
「番組に興味はあるけど、家族と一緒には見づらい。家族だからこそ言えないこと、知られたくない感情がある」
「家族とはこうあるべき」という自他からのプレッシャーを受けながらも、そんな心の内を誰にも言えない―。
「いない」のではなく「言えない」。きょうだいに限らず、そんな思いを抱えている人は、案外近くに、そして、たくさんいるのかもしれません。(善)

言葉に耳を傾けて…

「何にもしてないとは思われたくないなぁ」

ふらっとスペースには、不登校の子どもが遊びに来ることがあります。最初は緊張で口数の少ない子も、会場の雰囲気に慣れてくると表情も明るくなり、笑顔も見られます。

そして、学校に行か(け)なくなった理由。進学のことやこれからの悩み。また、同級生に遅れないように自宅で勉強を頑張っていること…。ポツリポツリと語ってくれます。

そんな中、ある子が冒頭の言葉をつぶやきました。学校を休んで何もしていない、怠けていると思われるのは嫌なのだと教えてくれました。

彼らの話を聞いていると、人一倍考え、葛藤し、悩み抜いた上で「学校へ行かない」という選択をしているのだと気付かされます。
学校へ行か(け)ない理由は人それぞれ。そこにある悩みや不安はすぐに解消できるものではないかも知れません。しかし、まずは彼らがゆっくりと思いを語ることのできる経験、そしてそれに耳を傾ける人の存在が必要なのかもしれません。       
(拓)

吃音の「しんどさ」はどこにある?

「自分の生きにくさの原因が『吃音』であると知ったのは25歳の時でした」と、ある吃音者が言いました。

「どのようにして知ったのですか?」と尋ねたら、「インターネットでたまたま開いたサイトに、見知らぬ吃音者の経験談が書かれていた。それを見た時、今までの自分と重なり、涙が止まらなかった」と話されました。

その後、言友会に参加するなどし、自身の生きる道を考え直されたそうです。

つまり、自身の生きにくさの理由を正しく知ることが、前に進むステップになったということでした。

ただ、生きにくさの理由の捉え方が大事だという話にもなりました。「吃音」そのものが苦しいのではない、というのです。むしろ、友人や仕事仲間など、周りの人たちとの関わりの中にしんどさがあるのだ、と冒頭の彼は言いました。

つまり、吃音ではない人たちの理解の度合いや関わり方によって、問題が生み出されているのだと、捉える必要があるように思います。
そう考えると、吃音ではない人も、当事者として考えていくことが大事なのだと思いました。
(善)

それぞれができる地域の居場所づくり

8月に実施した「地域食堂立ち上げ応援講座」。その終了後に、筑後市内のとある校区で立ち上げに向けて協議が進められています。講座の受講者に加え、校区内で関心のある方も協議に参加されています。

「昔は隣の家で一緒に夕食を食べたり、大人も子どもも顔を合わせる機会が多かった」このような話も、協議の中で度々話題に上ります。
 近所の空き地で遊ぶ子どもの姿。井戸端会議をする人。人が地域で自然と交わる機会も減っているのかもしれません。

「食事作りのお手伝いぐらいならできるよ」と地域食堂の立ち上げに協力する人もいます。また「うちで作る野菜。食べきれないから使って」という声も。それぞれが出来ることを持ち寄って立ち上げる地域食堂。新たな地域のつながりの形なのではないでしょうか。

ただいま、食堂立ち上げに向け、理解者や仲間づくりの真っ最中。地域の居場所の一つとしてどのように根付いていくか…。今後の展開に乞うご期待!        (拓)