福岡県筑後市の社会福祉法人 筑後市社会福祉協議会

「地域の誰かとあなた自身の安心に」

 就職で他県に住んでいた時、大雨で、浸水や土砂崩れが起こり、数日間、市が孤立する水害に見舞われたことがありました。

 たまたま上の階に会社の同期が住んでいたので避難させてもらいました。しかし、同期がいなければ、知っている人もいない避難所に一人で行く勇気もなく不安で怯えながら過ごしていたと思います。また、そのような気持ちで過ごしていた方が近くにいたかもしれません。

 体調の変化や、自然災害など暮らしていて不安に感じることがあります。身近に住む地域の人と日頃から顔を合わせておくことはとても大切なことだとその時に実感しました。

 10月1日より、赤い羽根共同募金がスタートしました。集まった募金は様々な地域福祉活動や災害時の支援などに使われています。

 地域には、色んな方が暮らしています。誰しも不安や困ったことが起こることがあります。「困ったときはおたがいさま」「じぶんのまちを良くするしくみ」として運動している共同募金。地域の誰かとあなた自身の安心に繋がっています。(実)

「次にヒーローになるのは貴方かもしれません」

 知的障害のある高校生に起きた出来事です。

 定期的なバス移動が必要になったため、親子で何度も練習。いざ一人でバスに乗る日、お母さんも本人も不安でいっぱいでした。

 不安な気持ちで乗車すると、「どこのバス停で降りるの?」と運転手さんが声をかけてくれました。「『○○です』と言えたから安心できた」と本人。

 「本人の様子を見て、想像力を働かせてくれたのでしょう」とはお母さん。

 以降、安心してバスに乗れるようになりました。少しの理解と、さりげない声掛けで、本人の可能性が大きく広がりました。

 見た目では分かりにくい障害――。実は不安感や困り感、孤立感を感じている方も少なくありません。この子もそんな一人でした。

 そこに登場したこの運転手さんは、まさにヒーローのようでした。

 想像力を働かせ、さりげなく声掛け、見守る…。次にそんなヒーローになるのは、この記事を読んでいる貴方かもしれませんね。   (善)

「コロナは人と人を遠ざけようとするウイルスだと思う」

記事にも紹介した地域の方の言葉で、私もそう感じています。学校でも地域活動でも様々な制限が求められ、子どもから高齢者まで交流の機会が減り、つながりの形は変容しました。

 しかし、今まで見えていなかったことに気付かされたこともありました。

 私自身が感染し自宅療養中。近所の方たちや友人が心配し、買い物や食事に困っていないかと、次々に差し入れを玄関先に届けてくださいました。こんなにも気に掛けてくれる人が身近にいたのだ、とつながりの有難さ、心強さを感じました。

 一方、近所の方が「必要な物があったら買い物してきましょうか」と声をかけてくれたものの、そんなに頼って良いものか…とためらい、結局市外の身内にお願いしたこともありました。

 誰にでも非常時は突然やってくること、自分も周りに助けてもらわないと生活できないことを改めて自覚しました。それを普段から意識し、いざという時に助けてもらえる心構え【受援力】を身に着けておくことが大切かもしれない、と学ばされました。(喜)

「幼馴染が話してくれたこと」

記事にもあるシブリングサポーター研修。冒頭、素敵な言葉で始まりました。

 「今日の話がきょうだい自身や親御さんでなくても、心に刺さりすぎることがあります。どうぞ上手に自身の心を守りながら聞いてください」

 私の幼馴染は、小学生の時に兄弟を亡くしています。

 大人になって話してくれました。

 「実は、誰にも言えなかったけど学生時代が本当にきつかった。その頃から誰かに分かってもらいたいと期待することをやめてしまった」と。

 シブリングサポーターのような気持ちを伝えられる人がいれば、もっと楽に生きられたんだろうなと思いました。

 「家族に自分の気持ちを全部分かって欲しいと思ったこともあった。けれど、責め続けるのもつらいから、仕方ないところもあるのかなって、許すことができた時、楽になった」とも話していました。

 今では沢山笑う幼馴染。自分が心から楽しいと周りも楽しいことを知っているみたいです。   (実)

「もし加害者の青年に会ったら、あなたは何と言いますか?」

本紙で紹介した奥田知志氏の講演では、「相模原事件」も話題に。

加害者の青年は、「役に立たない障害者に多額の税金を使うのは皆の迷惑だ」「障害者は不幸しかつくれない」と、受け入れがたい主張をしました。

 そんな青年に、奥田氏は4年前に面会したと話されました。

 「君はあの事件の直前、役に立つ人間だったか?」と尋ねたところ、一瞬考えこみ「僕はあまり役に立ちませんでした」と答えたそうで、「この事件の真相は、この辺りにあると思った」と言われました。

 つまり、「役に立つ」「立たない」で線引きされている世の中であり、役に立たない者は必要ないという、いわばうば捨て山社会になっていないか、と。

 であれば、「19人をも殺めたあなたに生きる資格はない」と言ってしまうと、青年の受け入れがたい主張と同義になってしまう。

 「何のために生きるか、ではなく、生きること自体に意味があるという捉えなおしが必要」と氏。そして次の言葉で講演は終わりました。

 「もし加害者の青年に会ったら、あなたは何と言いますか?」   (善)

「おせっかい」

 ご近所に、毎日一万歩を歩く高齢で一人暮らしの女性がおられます。その方は歩きながら道や公園のごみを拾ったり草とりしたり、近所の人と会話したり…。ゴミ収集日には必ず収集所に立って、係でもないのに分別の手伝いや片付けもされます。

 近所の家の様子もよく見られていて、最近見かけない人がいれば隣の人に尋ね、庭の手入れに困っている人がいれば枝木を切ったり草取りを手伝ったり姿も見かけます。

 近所付き合いを面倒に思う人も増え、「おせっかい」、ひょっとしたら「監視」と感じる人もいるかもしれません。実際、引っ越して初めてこの方と会った時は圧倒されました。しかし、今はこの方とのおしゃべりが大好きです。地域の最新情報も昔のことも、色んなことを教えてくださいます。

 そして公園、道路、ごみ収集所も、いつもきれいなのはこの方のおかげです。わが家の子どもたちにもいつも声を掛け見守っていただき、近所をパトロールしてくれていると思うと家を空けている時の安心感もあります。

 今や減った「おせっかい」のありがたさを感じますし、それが今も受け入れられている地域っていいなあ、

と私は気に入っています。   (喜)

「その「誰か」になれるように。」

 ユースサポートの取材をしながら小学生の頃を思い出していました。私も担任の先生や同級生との関係、クラスの雰囲気などで学校に行けない時期がありました。

 学校と家だけで、どこにも逃げ場がない中、子どもなりにたくさん考えて自分の気持ちを整理していたと思います。

 母は「無理して行かなくていいよ」と、行きたくない理由をゆっくり聞いてくれて家と学校以外の居場所を作ってくれました。そして頑張れる場所ができたこと、クラスの雰囲気が変わったことも重なり学校に行けるようになりました。

 しかし学校に行けるようになることがゴールではなく、行けるから大丈夫というわけでもありません。理由を話さないのではなく、話せないのかもしれません。本当は「誰か」に分かってもらいたいと思っているかもしれないのです。

 子どもたちが「どうせ分かってくれない」と諦めることがないよう、その「誰か」になるために、私たちにできることは何か考えていかないといけないのではと改めて感じました。           (実)    

「症状ゆえの苦労以外の、“知られまいとする苦労”」

 今回行なった精神障害のある女性へのインタビュー。話を伺って印象的だったのは、周りの方へたくさんの感謝の気持ちを持っておられる、ということ。とても素敵だな、と改めて彼女の魅力を感じました。

 数日後、記事にまとめて彼女に確認して頂きました。その時一番に気にされたのは、「私だと特定されないか」ということ。取材時も言われたのですが、「私が独身ならどれだけ知られても構わない。でも、子どもが変な目で見られたら怖いから」と。

 誰でもなる障害で、本人が責められるものでも、怖いものでもないことは明らかです。それなのに、なぜ彼女は隠さないといけないのでしょうか…。

 障害はマイナスな面ばかりではないものの、彼女の場合は今でも、眠れなかったり極度に疲れやすかったりと、様々な苦労もされています。しかし、その症状ゆえの苦労以外に、障害を周りに知られまい、という苦労をしないといけない…、これが一番の問題だと感じました。

 同時にそれは、正しい理解や声掛けなど、地域の一員である私たちの意識や行動で解決していけるのでは、と思っています。       (喜)

「私は付属品じゃない!」

 「私は付属品じゃない!」という声が心に刺さりました。妹に知的障害がある 歳代の女性の話です。

 「子どもの頃、妹の療育に母は私も連れて行っていた。療育施設に着くと母と妹は別室に行く。母と保育士たちと楽しそうにしている妹の姿が窓から見えた。私は一人ぼっちだった。たまに通りがかる職員は、私のことを『○○ちゃんのお姉ちゃん』と呼ぶ。私も一人の子どもだよ!私は付属品じゃないよ!そう思っていた」

 そんな彼女は「親は妹の世話で大変。だから親に甘えた経験がない」「誰を頼って良いか分からず、誰にも助けを求められなかった」とも。

 こうした話はこの女性特有のものではなく、きょうだい支援に関わる中では、よく話題になることです。

 ひょっとしたらヤングケアラーにも同じようなエピソードがあるかもしれない。だとしたら、私たちがすべきは、一人ひとりの子どもを大切にすることと、「助けて」と気軽に表現できる環境をつくることではないか。

 「私は付属品じゃない!」と心の中で叫ぶ子どもを減らしていくのは、大人の役割ですよね。      (善)

「自分を許す」

「『大変』なままで終わらせないで欲しい」

 点訳グループむつみ会で、小学校の福祉教育でもお話してくださる視覚障害の方のお宅に伺った際に言われた言葉です。

「最近、自分のことを書いてみてるの。聞いてくれる?」といつもの明るい調子で言われ、点字で書かれたものを読み上げて下さいました。

 子どもの頃、徐々に目が見えなくなっていくときの気持ちや手術・入院中の様子、両親とのやりとりなどその光景が目に浮かぶような言葉についつい自分の過去も重ねて涙を流してしまいました。

 冒頭の言葉は、『大変』さを受け入れ、自分のことも周囲のことも許し、前向きに生きる方の言葉ではないかなと思います。

 人それぞれ『大変』なことは違います。『大変』さを誰かに分かってもらうことも大切ですが、自身が理解し受け入れ、許すことができれば、楽に、前向きになれるのだろうと改めて感じました。

 そんな、心が温かくなる素敵な時間でした。        (実)