福岡県筑後市の社会福祉法人 筑後市社会福祉協議会

「安心してどもれる人だっただろうか」

 「先生たちに知ってほしい吃音のこと」というリーフレットがあります。
吃音は、頭の中では分かっているのに、円滑に話せなかったり、スムーズに言葉が出てこない症状のことで、子どもの発症率は20人に1人と言われています。
 そのリーフレットには、「時間がかかっても、話し終えるまで待ちましょう」「話し方よりも、話の内容に注目しましょう」とありました。
  ということは、話の途中で遮られたり、話し方をからかわれ悔しい思いをした吃音者が多いということでは…。
 また紙面には、「周囲に吃音を受け入れてもらえるかの不安」「からかいや偏見への恐怖」という吃音者の声も紹介されていました。
 つまりは、「言葉が出ない」ことよりも、周りとの関わりの中に生きづらさがあるということになります。
 今秋、吃音の青年を実習で受け入れました。彼にとって私は安心してどもれる人だっただろうか。問われているのは彼の吃音ではなく、「私」なのかもしれません。    (善)

「助けて」と言えると助かる

 先日、コインパーキングから出るためにお金を払おうとしていたとき、すぐそばで自転車が止まりました。見ると、高校生らしき男の子で、鼻血が出ていたようでした。心配に思いましたが、ジロジロ見るのも失礼だし…、知らない大人に声をかけられても迷惑かもな…、と声をかけられずにいました。 
 すると、その高校生が「すいません。鼻血がでました。ティッシュはありませんか?」と私に声をかけてくれたのです。
 私は、「大丈夫?」とティッシュを取りにいきながらやっとその高校生に声をかけることができました。
 少しすると鼻血が止まり、お礼を言われました。私もお礼を伝えました。その高校生が声をかけてくれたおかげで、すがすがしい気持ちで帰ることができたからです。
 何か困っていそうな人がいたら協力したいと思っていても、相手にとってそれが良いのか悪いのかわからず、躊躇してしまうこともあります。「助けて」と言ってもらえるとそのハードルはぐっと下がるんだなと思った経験でした。   (中)

「声をかける、ちょっとの勇気を」

 先日、「今のクラスが嫌い」と言い出した娘。理由を聞くと、体調を崩して休んでいた子が久しぶりに登校してきても、「大丈夫?」「治って良かったね!」など、誰も声を掛けない。同じように自分が休んでいた時も声を掛けてもらえず、何だか寂しかった…と話してくれました。

 そして、児童養護施設で過ごしていた人が「私たちのことを気に掛けてくれる人の存在に、気持ちが救われた」と話されていたことを思い出しました。自分自身を振り返っても、不安や寂しさでその場にいるだけでも精一杯という状況で、気付いて声を掛けてもらえた瞬間に安心できたことを覚えています。

 何かを手伝ってもらうでもなく、ただ自分を気に掛けてくれている人がいる、と感じられるだけで、その場の居心地が良くなり、そこが自分の居場所になっていく…。生きていく上では、そうした人の存在が誰にとっても必要なのだと、娘のつぶやきから改めて気付かされました。

 まずは、周りの人のことを気に掛ける、ちょっと勇気はいるけど声を掛けることができるようになる。それが娘と私の今の目標です。 (喜)

「僕たち・私たちのことを考えてくれる人がいたんだな」と思い出せる経験の提供

「夏休みはいらない」。そんなニュースを目にしました。

つまり、困窮している家庭にとっては、「給食がなく食費がかかる」「エアコン代等の利用で光熱水費が負担になる」というのです。

また、学校外で得られる体験や機会にも格差が生じる「体験格差」も指摘されています。

このような、「子どもの貧困」が社会問題化して久しくなりました。

一方で、「地域の子どもたちのために何かできないか」と考える大人が増えているのも事実です。

学習支援・食事提供・遊びの場の提供など、今夏も複数の地域で、子どもの居場所づくりに取り組まれました。そこには多くの子どもが集い、安心で安全な環境で過ごせました。

私たちにできるのは、「僕たち・私たちのことを考えてくれる人がいたんだな」と、思い出せる経験の提供なのかもしれません。

そして、誰もが安心して集える居場所は、例えば困窮している家庭の子も、気兼ねなく安心して集えるのだと思います。 (善)

「公園には今もきれいな花が咲いています」

 近所にある公園は、ボランティアグループの方が毎日のように清掃や花の世話をされて、いつもきれいで住民憩いの場となっていました。
しかし高齢になり活動が難しくなったため、今後は地域の活動としてやってもらえないか、と地域の役員へ相談があったとのこと。

 そこで地域としてどうするか、役員会で話し合うことに…。その中では、役員で分担して水やりする、住民へ協力を呼び掛ける、花を育てるのをやめる、といった案が出されました。

 その場の結論は、今咲いている花が枯れるのを待ってその後は植えない、でした。どの家庭も忙しい中お願いできない、負担を感じて区を抜けたいという人も出かねない、などの意見が多かったのです。
効率性を考えることも必要で、やむを得ないと思う反面、寂しさも感じました。

 しかしそれから一年。公園には今もきれいな花が咲いています。やはり、長年地域を想い行動してきた人の思いを、できる範囲でも繋いでいきたい、と続けることになったのです。花を見るたび、温かい人が身近にたくさんいる、と嬉しさや心強さを感じます。   (喜)

「みんな支え合って暮らしている」

 高校生でヤングケアラーとなり不登校を経験した方の本を読みました。

 自死寸前まで追い込まれたこと、相談していいのか葛藤したこと、信頼できる先生に打ち明けたことが好転のきっかけとなったことなどが書かれていました。

 その本の中にこんな言葉も。

 「食べることも、生活することも、みんな誰かに助けられている。そう考えると助けてもらうことのハードルが低くなりませんか」と。

 数年前に、お金を払っているんだから「いただきます」は、言わなくていいという考えが話題になったことがありました。

 「いただきます」には、食材を作ったり、運んだり、時間という命をかけてくれた方への感謝の気持ちも込められています。

 忘れてしまいがちですが、みんな支え合って暮らしているのです。

 誰かに頼ったり、助けてもらうことが難しいときがあります。しかし、誰もが支え合って暮らしていると思うと、助けてもらうことは特別なことではないなと感じました。(実)

「困っていること以外の部分を見てみませんか?」

「資格取得のために行った実習先で『あなたが実習して何になるの?』と言われたことが、心に刺さっている」

 社会福祉士の有資格者の話です。

 この言葉が投げかけられたのは、彼には脳性麻痺という障害があり、車イスを利用しているから、でした。

 そんな彼は、障害者プロレス団体に所属し、何度もリングに上がっていました。また、旅行が趣味で、日本各地に赴いています。

 しかし「自分らしい生き方よりも、『障害者=困っている人』と見られることばかり。困っていること以外の姿を、世の中の人は見ようとしているだろうか?」と言われてしまいました。

 昨今、「地域共生社会」という言葉が多用されます。地域で共に生きる社会を目指すわけですから、ある時は支え、ある時は支えられるという、人と人の関係性が流動的であることが、自然な姿なのだろうと思います。

 そう考えると、前述の彼の次の言葉が、そのヒントになる気がします。

 「困っていること以外の部分を見てみませんか?」        (善)

「地域や人とつながりたい人は、実は多いのかも?」

 近所付き合いを若者は求めていない、という印象を持っていましたが、それを変える出来事がありました。

 先月、住んでいる地域で懇親会を兼ねて花見をしよう、と初めての計画をされました。しかし当日は雨。会場を屋内に変え、役員の方は「若い人はわざわざみんなで食べずに持ち帰るだろう」と、小さな部屋を用意。ところが実際には、多くの方が懇親会への参加を希望したのです。

 子どもたちは、毎日見守りをしてくれる地域の方にお礼と自己紹介をしたり、仲良く走り回ったり、大人もお互いに交流や情報交換をしたりと、賑やかなひと時になりました。

 参加者のほとんどはコロナ禍に引っ越してきた世帯でした。話してみると共通して、「話したいと思っていたけど、ためらっていた」「近所にいても顔を合わせるきっかけもなかったので、こうしてつながれて嬉しい」という言葉が聞かれました。

 人との接触が制限され、当たり前につながることができない経験をしてきました。その中でその大切さを再認識し、地域や人とつながりたい、と思っている人も増えたのかもしれない、と感じています。  (喜)

「安心できる居場所」

 記事にもあるひとり親のためのくらし応援講座では、心の動揺を減らすために「協働調整」の大切さも話されました。「協働調整」とは、同じことで悩むグループなど、安心する人との関わりの中で心が安定するというものです。

 筑後市母子寡婦福祉会(以下、母子会)では、ひとり親の皆さんと、かつてひとり親だった寡婦の皆さんでイベントや講座を通して交流し、悩みを共有したりしています。

 会員の方からは、「話してみて自分だけじゃないと知って楽になった」「寡婦の皆さんが悩みを乗り越え、明るく過ごしているのを見て前向きになれた」といった声を聞きます。

 母子会の皆さんだけでなく、生きていく中で落ち込んだり、悩むことがあります。「協働調整」によって、気持ちがラクになったり、元気をもらったりします。自分だけで、どうにかしようと考えるのではなく、安心できる居場所で、誰もがいつでも助け、支え合える関係をつくれたらいいなと改めて思いました。 (実)

「悲しみに寄り添われること」

本号でも紹介したきょうだい会には、幼少期に知的障害の妹を病気で亡くした女性も参加しています。

「同僚に、『きょうだいいるの?』と尋ねられると、どう答えたものか、いつも悩む」

「『妹は障害があり、病気で亡くなった』と言うと変な空気になるのは分かっている。だから、『きょうだいはいない』と言ってしまう…」

 「だんだんと、妹のことを知っている人が少なくなっていく。だけど、私には妹がいた。妹の存在が消え去らないために、きょうだい会に参加したい」と彼女は話します。

 だんだんと遠い過去になりつつも、妹との思い出を話す彼女。きょうだい会のメンバーは、「うんうん」と、ただ話を聴いています。

 幼少期に身近な人を亡くすのは大きな出来事です。

 今、グリーフケアが着目されています。これは、身近な人との死別の悲しみに寄り添うことです。

 多死社会を迎える中では、悲しみに寄り添ってくれる人や場はとても貴重です。そして、そんな人や場とつながっていることが、これからを生きる力になると思うのです。 (善)