陸軍の船舶隊に属していた祖父は、1945年8月9日に長崎市で被爆しました。22歳の時でした。
出島付近で被爆し、自身は防空壕へ逃げたが、真っ黒になり、なすすべもなく亡くなられた人たちが哀れだった――。祖父はそんな手記を、長崎の追悼平和祈念館に残していました。
祖父は、被爆したことを20年ほど前まで家族にも話していませんでした。被爆者やその家族への差別や偏見を恐れてのことだったようです。また、思い出したくない出来事だったのかもしれません。
しかし、被爆したことを明かしてからは、自分の経験を次の世代につなげたいと、地元の小学校等で被爆体験を話す活動をしていました。
2005年には、8月9日の式典に、長崎市へ一緒に行きました。その時に、手記の存在を私に教えてくれました。
そんな祖父の存在が、私の「人を大事にしたい」「傷つけたくない」「社会福祉の分野で働きたい」という思いに、いつの間にか影響したのかもしれません。
そんな祖父が他界して2か月。
今の子どもたちが大人になった時、私たちの今の行動がどのような過去として存在しているのだろうか…。そんなことを思った祖父の死でした。 (善)