福岡県筑後市の社会福祉法人 筑後市社会福祉協議会

ちょっとの心がけが大きな支えに

日本では、まだ食べられるのに捨てられる食品。いわゆる「食品ロス」が年間632万トンも発生しています。これを人口に換算すると1人当たり茶碗1杯分のご飯を毎日捨てている計算になるそうです。

社協では、簡易フードバンクの取り組みを実施中です。家庭で食べなくなった食材を必要とする方に渡すという取り組みです。昨年度は 件の世帯に食品を提供しました。食べるものがないという生命の危機に直面した方にとっては、大きな支えとなります。

また、地域食堂の取り組みにもフードバンクの食材は活用されています。これは、食事を通した地域の居場所づくり活動です。生活困窮の要因となる「孤立」を防ぐための取り組みとも言えます。

家庭に眠っている食品や、捨てられようとしている食品が誰かの命をつなぎます。誰かのよりどころを確保する活動につながります。
普段の生活でちょっと心がけるだけで、あなたの隣の人を救うことになるのかもしれません。   (拓)

バイトテロに見る格差社会

わざとゴミ箱に魚を放り入れ、それをまな板に載せて調理する。そして、その様子を映像にしてSNSに掲載する。
2月にそんな映像がマスコミで取り上げられ、直後から「バイトテロ」として話題となり、その他飲食店やコンビニでの同様の事例が多数報道されました。

確かに、店内の裏であんなことが行われていると不衛生ですし、不愉快です。

アルバイト店員の行動はあってはならないことです。企業はそのアルバイト店員に法的措置も検討しているそうです。

ただ、今回の報道で見え隠れするのは、夜間の営業や飲食店の厨房が、少数のアルバイト店員のみで行われているという点です。

つまり、正職員などの責任者がいない職場だったということ。そんな労働環境が果たして健全なのだろうか、と。

消費者は「なるべく安く買おう」とするわけですが、それが「安上がりな労働力」によって成り立っているという事実が垣間見えるようです。

「格差社会」「子ども・若者の貧困」という言葉が珍しくなくなった時代。それを生み出しているものが、私たちのすぐ側にあるような気がしましたし、自己責任論だけではいけないなと思いました。                (善)

力を発揮できる環境

高齢者や障害のある方のちょっとした困りごとのお手伝いをする「もえもんサービス」。毎月、数件のお宅で草取りやゴミ出しなどを行います。

ひきこもりだった青年が、頻繁に作業を手伝ってくれています。

メンバーの中で一番若手の彼に、経験豊富なAさんが作業のアドバイスを送ります。彼もそれに応えようと、汗をかきながら一生懸命、作業をします。そして休憩中は他愛もない会話を交わし、笑顔も見られます。作業が終わると家主の方は「本当に助かりました」と感謝されます。彼が不在のときは「今日は○○くん来てないね」とAさんも寂しそうです。

彼の力が必要とされていて、彼が来るのを待っている人がいます。ひきこもり経験のある人は「支援が必要」と考えられがちかもしれません。しかし、必要なのは力を発揮できる環境と、そこで待つ人との交わりなのではないかと感じます。

隠れた力を持つ人はまだ多いはず。枠にはまった「仕事」ではなく、それを柔軟に発揮できる環境が求められているのかもしれません。(拓)

様々な家族への思い

12月に、「きょうだい」をテーマにしたテレビ番組が放送されました。

「きょうだい」とは、障害のある人の兄弟姉妹のことを指す言葉。筑後市では「ふくおか・筑後きょうだい会」が、きょうだい同士の交流活動を進めています。

番組放送に先立ち、「とうとう、きょうだいにスポットライトが当たりますね」と会員に話したところ、数人の会員がこのように言われました。

「1つの事例の紹介で、全てのきょうだいが同じように思っているとは、捉えてほしくない」
「家族のことを『嫌い』と言えない雰囲気がある。『嫌い』という感情があっても良い、とも伝えてほしい。家族だから仲が良い、という
勝手な家族像をつくらないでほしい」
「番組に興味はあるけど、家族と一緒には見づらい。家族だからこそ言えないこと、知られたくない感情がある」
「家族とはこうあるべき」という自他からのプレッシャーを受けながらも、そんな心の内を誰にも言えない―。
「いない」のではなく「言えない」。きょうだいに限らず、そんな思いを抱えている人は、案外近くに、そして、たくさんいるのかもしれません。(善)

言葉に耳を傾けて…

「何にもしてないとは思われたくないなぁ」

ふらっとスペースには、不登校の子どもが遊びに来ることがあります。最初は緊張で口数の少ない子も、会場の雰囲気に慣れてくると表情も明るくなり、笑顔も見られます。

そして、学校に行か(け)なくなった理由。進学のことやこれからの悩み。また、同級生に遅れないように自宅で勉強を頑張っていること…。ポツリポツリと語ってくれます。

そんな中、ある子が冒頭の言葉をつぶやきました。学校を休んで何もしていない、怠けていると思われるのは嫌なのだと教えてくれました。

彼らの話を聞いていると、人一倍考え、葛藤し、悩み抜いた上で「学校へ行かない」という選択をしているのだと気付かされます。
学校へ行か(け)ない理由は人それぞれ。そこにある悩みや不安はすぐに解消できるものではないかも知れません。しかし、まずは彼らがゆっくりと思いを語ることのできる経験、そしてそれに耳を傾ける人の存在が必要なのかもしれません。       
(拓)

吃音の「しんどさ」はどこにある?

「自分の生きにくさの原因が『吃音』であると知ったのは25歳の時でした」と、ある吃音者が言いました。

「どのようにして知ったのですか?」と尋ねたら、「インターネットでたまたま開いたサイトに、見知らぬ吃音者の経験談が書かれていた。それを見た時、今までの自分と重なり、涙が止まらなかった」と話されました。

その後、言友会に参加するなどし、自身の生きる道を考え直されたそうです。

つまり、自身の生きにくさの理由を正しく知ることが、前に進むステップになったということでした。

ただ、生きにくさの理由の捉え方が大事だという話にもなりました。「吃音」そのものが苦しいのではない、というのです。むしろ、友人や仕事仲間など、周りの人たちとの関わりの中にしんどさがあるのだ、と冒頭の彼は言いました。

つまり、吃音ではない人たちの理解の度合いや関わり方によって、問題が生み出されているのだと、捉える必要があるように思います。
そう考えると、吃音ではない人も、当事者として考えていくことが大事なのだと思いました。
(善)

それぞれができる地域の居場所づくり

8月に実施した「地域食堂立ち上げ応援講座」。その終了後に、筑後市内のとある校区で立ち上げに向けて協議が進められています。講座の受講者に加え、校区内で関心のある方も協議に参加されています。

「昔は隣の家で一緒に夕食を食べたり、大人も子どもも顔を合わせる機会が多かった」このような話も、協議の中で度々話題に上ります。
 近所の空き地で遊ぶ子どもの姿。井戸端会議をする人。人が地域で自然と交わる機会も減っているのかもしれません。

「食事作りのお手伝いぐらいならできるよ」と地域食堂の立ち上げに協力する人もいます。また「うちで作る野菜。食べきれないから使って」という声も。それぞれが出来ることを持ち寄って立ち上げる地域食堂。新たな地域のつながりの形なのではないでしょうか。

ただいま、食堂立ち上げに向け、理解者や仲間づくりの真っ最中。地域の居場所の一つとしてどのように根付いていくか…。今後の展開に乞うご期待!        (拓)

あのとき、居場所があったと思えるように…

この記事を書いているのが8月末。メディアや新聞紙上では、「あなたはひとりじゃない」「自死を選ぶくらいなら〇〇においで」など、子どもたちに向けてのメッセージが紹介されています。

そんなメッセージは、「貧困」「いじめ」「孤立」など、今の子どもたちが置かれている厳しい環境を示しています。

子どもの生活は家や学校が中心で、社会が狭くなりがちです。そんな中で、「貧困」「いじめ」「孤立」という状況になったら…。自己否定に陥ったり、感情のやり場がないということもあります。

実際、「子どもの頃不登校だった」「実はいじめられていた」「子どもの頃がつらかった」と言う人に、仕事柄よく出会います。そんな彼らに、「子どもの頃、何があったらよかった?」と尋ねたら、「家や学校以外で、全面的に認められる場所」と言います。

筑後北校区の「こどものひろば」では、地域の役員や学生ボランティアは、子どもたちをたくさん褒めてくれました。中には、苦しい状況の子どもがいたかもしれない。そんな子が、「僕(私)のことを分かろうとしてくれた人がいた」と思ってもらえたらいいな・・・。

今じゃなくてもいい。そう思えるのが、5年後10年後でもいいから。  (善)

切り捨てられない社会へ

相模原市の障害者施設で19人が犠牲になった事件から2年が経過しました。7月26日の事件当日にあわせ、様々な報道媒体で事件が取り上げられました。凄惨な事件の内容や「障害者は税金の無駄遣い」といった犯行の動機について改めて考えさせられました。

一方、ある国会議員がLGBT当事者に対し「生産性がない」「そのような人に対しては税金を使う必要がない」という趣旨の発言をし、批判が集まっています。

もし「生産性がない」「税金の無駄」と切り捨てられるのであれば、その対象は誰になるのでしょうか。障害者やLGBT当事者だけでなく、病気になったら、怪我をしたら、年老いたら。誰しもが切り捨てられることになってしまうのでは…と思うのです。

相模原事件から2年が経過した今。改めて私たち一人ひとりの存在の尊さを見つめ直す必要があるのかもしれません。私たち誰もが切り捨てられることのない社会であるために…。(拓)

支えられるための学習

小学3年生の子どもたちに、「認知症」の授業をする機会をいただきました。子どもたちに、どう伝えようか考える中で、そこに難しさを感じました。

「認知症の人を理解しよう」という一面的な授業で良いのか、と。

認知症の方を対象者化し、単に「理解しましょう」「支えてあげましょう」という授業では、「認知症の人=社会的弱者(かわいそうな人/自分とは違う人)」という認識をつくり上げてしまうのでは、と思ったのです。

同時に、「子どもの貧困」が広がっている中で、苦しい状況の子どもたちが目の前にいるかもしれない。そんな中で「誰かを支えましょう」「理解しましょう」とだけ言うのは、酷なのでは…とも。

つまり、そこにいる子どもたちは、すでに何かの当事者かもしれない。また、いつかは誰もが何かの当事者になる。これは前提です。

そう考えると、「どうやったら助けてもらえるか」「どうしたら『困った』と言えるか」という、〝支えられるための学習〟も進めるべきでは…と思うに至りました。支えられることも含めて、「支え合い」なのですから。 (善)